始まりはオールハンドメイド
ジェムス創業者である、佐々木のジュエリー職人としての道はオールハンドメイドから始まりました。
オールハンドメイドとは、プラチナやゴールドの地金から、そのままジュエリーを作りあげることです。
板状や棒状の地金を糸ノコで切り回したり、金槌で叩いて伸ばして曲げて、形を作っていくのです。
この写真で言えば、センターの石周りの波打つようなテーパーダイヤモンドの取巻き。
この土台も平らな地金の板から、金槌で叩き出したものです。
絶妙なウェーブを描くこの取巻きには、サイズが微妙に異なるテーパーダイヤモンドがぴったりとはまります。
裏側の空間を埋める唐草模様も、1本1本地金の細い板を曲げて形作ったものです。
まさに匠の技と言えるでしょう。
40年前はオールハンドメイドが主流でしたが、このリングのように匠の技を必要とするものを作れる職人は、そう多くはいませんでした。
そんな匠の技を持つ職人でも、このようなリングを作るには40~50時間は必要だったそうです。
しかし、当時佐々木はわずか2日間、およそ16時間ほどで作ってしまいました。
修行時代から、「高級ジュエリーを圧倒的なスピードで作り上げる」ことをモットーとしていた佐々木のなせる業でした。
取引先からは「あいつは怪物だ!」と言われるほどのスピードで同業他社を圧倒していました。
コンテスト用ジュエリーでゴールド賞を受賞
1980~1990年代に開催されていたジャパンゴールドジュエリーフェアではデザインコンテストが行われていました。
1986年、ある会社からそのコンテストのためのジュエリー製作を依頼されました。
当時はプラチナ職人であった佐々木は、ゴールドなど扱ったことはありませんでした。
いったんは製作を断ったのですが、「他に作れる人がいない」と何度も懇願されたため、やるしかないと引き受けました。
しかし、それまでプラチナを扱っていたため、初めてのゴールドは勝手が違います。
しかも作品は細かいメッシュ状のものだったため、バーナーの火加減違いであっという間に溶けてしまいます。
通常のジュエリーの作りとは全く違うものであり、場所をとる大作でもあったため、佐々木は一日の仕事を終えてから夜遅くまで一人作品に取り組みました。
相当な苦労をしましたが、出来上がりは満足いくものでした。
次の年も引き続き依頼がありましたが、こちらの作品も今までの作り方では到底作れるものではなく、まるで鉄工所のような雰囲気での物作りで、試行錯誤の末に完成させました。
苦労の甲斐もあり、どちらのコンテスト作品もゴールド賞を受賞。
受賞作品は、フェア会場内で行われたオートクチュールジュエリーショーにてモデルが着用し、お披露目されることとなりました。
1986年の受賞作品2点。
初めて扱うゴールドに苦労しました。
1987年の受賞作品2点。
左の作品はすべて中が空洞です。
ゴールドの板を4枚張り合わせて作製しました。
ハンドメイドからファッションジュエリーへ
1980年代後半には、キャスト(鋳造)の技術が発達し、量産型のジュエリーが主流に。
1点1点手作りで作るジュエリーの注文は激減したため、ジェムスもファッションジュエリーへの参入を余儀なくされました。
ただし、ファッションジュエリーと言ってもありふれたものではなく、他の会社には出来ない、と言われたものに挑戦することにこだわりました。
テニスブレスレットとネックレスの大ヒット
1987年、テニスの全米オープンの試合中、選手のクリス・エバートがブレスレットを落としそれを探すため試合が中断したことがありました。
現在ではすっかり一般的なアイテムになっているテニスブレスレットです。
彼女が試合後のインタビューで「テニスブレスレット」と呼んだため、その名前とデザインが一気に有名になり、販売数が激増したといういきさつがあります。
このテニスブレスレットを国内でいち早く商品化したのがジェムスです。
あるとき、佐々木が取引先の会社に行ったところ、そのテニスブレスレットを見せられ「あちこちに聞いたけれど作れるところがどこにも見つからない。ジェムスさんで出来るかな?」と聞かれました。
佐々木は「なんで最初から私に聞いてくれなかったのですか?」と言い、見本を預かり持ち帰りました。
バラせない見本のブレスレットを見ながら機構を考え、いままで作ったことも無いブレスレットを見事作り上げました。
そのブレスレットとネックレスは大ヒットし、毎月数百本の生産量とまでなったのです。
その後も、定番のテニスブレスレット・ネックレスだけでなく、あらゆるデザインのネックレスやブレスレットの注文をこなすようになりました。
当時のネックレスのパターン図のごくごく一部です。
合計5ctくらいのものから20ct超えまで、あらゆるパターンに対応しました。
苦労したのはダイヤのサイズが変わるグラデーションネックレス。
1本のネックレスに、6~7種類のサイズのダイヤを使い、さらに合計のキャラットを合わせるのは簡単なことではありませんでした。
パヴェジュエリーの草分け
テニスブレス・ネックレスは10年近くは独壇場でしたが、徐々に参入してくる業者が増えてきました。
そうなると必然的に価格競争になり、魅力的なジュエリーとは言い難い安価なものが出回るようになります。
ジェムスとしては価格競争に参入する気はありませんでしたので、その分野に深入りすることをやめ、次のヒット商品の製作に取り掛かりました。
それが現在でも続いているパヴェジュエリーです。
パヴェとはフランス語で石畳という意味で、石畳のようにダイヤが敷き詰められたジュエリーです。
佐々木が修行時代、デパートの展示会で出会ったのが最初でした。美しさに見とれたものの、そのときは作り方もわからないものでした。
1992年、佐々木はあのパヴェジュエリーを作りたい、という思いで挑戦をはじめました。
もともとパヴェジュエリーは、地金にダイヤが留まる穴をあけ、その周りを彫金屋さんがタガネで地金を彫りだしツメを作ってダイヤを留めていく、という作り方です。
ただその場合、出来上がりまでのタイムスケジュールが彫金屋さん次第という難点もありました。
スピードがモットーの佐々木は、そこに変革をもたらしたいと思ったのです。
始めに考えた作り方は、シルバーでリングを作り、ダイヤが止まる穴をあけて、ダイヤを留めるツメが立つ部分にも小さい穴を空ける。
その小さい穴に、ツメにするための細い線をさし込みロー付けをする、というやり方でした。
しかしこのやり方では量産が出来ない!ということでロストワックスにやり方を変更しました。
地金を操るハンドメイドから、ワックスへと進化した瞬間でした。
ワックスでリングを削り出し、ダイヤが留まる穴を空け、ツメが残るように削りだしていく方法を試したところ、かなり良い感触がつかめましたがそれでもまだ出来栄えは不十分でした。
彫金のタガネで彫り出したツメと同じようなクオリティのものが出来ないかと考えた佐々木は、専用の道具を作ることに決めました。
そして試行錯誤の末、彫金屋さんがタガネでツメを作り出すのと同じように、ロストワックスでツメを作り出すことに成功したのです。
彫金屋さんに頼ることなく、自分たちでツメまで作り出すことが出来る。
このことにより、パヴェジュエリーの量産が可能となりました。
ジェムスの作り上げるパヴェは大評判となり、またたくまに一世を風靡しました。
現在でも「パヴェジュエリーのジェムス」と言われ、ジェムスの代名詞となっています。
1万本を超える原型のなかの、パヴェ原型のごく一部。
30年経っても、そのフォルムは色褪せません。